17 September, 2014 10:38

昔、プーケット沖合いにあるピピ島が大のお気に入りの秘境として何度か訪問。島の人はじゃんじゃんゴミを海に捨てるのに驚かされたのだが、海がきれいすぎて海をきれいにしなきゃという感覚がない。日本のように海が汚いから、ビーチクリーンをみんなが仕掛けるのがわかる。

今回沖縄の島の調査に那覇に滞在。猛烈なアメリカの文化の影響によって、若者たちは食にまるで無関心。今の健康と言われる高齢者でさえ寿命が著しく落ちているのだから、食に無関心な若者が高齢化したらさらにひどいことになる。

ゴミの話と同じように国民レベルで改善の意識を高めるには、さらに医療費が破綻に追い込まれないとこの国は改善に向かわないのであろうか。

十人いたら、美食家八人、食育二人といわれている日本国民の意識。

69年かけてアメリカにコントロールされてきた

また逆に戻すにはさらに、長い年月を要する。

癌でさえ発症するのに五年。気づいたときにはエンドオブステージ。

これを早期に解決するには、政治しかないのであります


浜野製作所

本日は、地域振興委員会の区議団全員で、深海探査艇江戸っ子一号を製作し、世界一の深い海底で3D撮影を成功させた墨田区にある浜野製作所を見学。 ここの二代目社長のチャレンジャーぶりに脱帽。
どんなに区が後方支援しょうが、柔軟な発想力と挑戦する思いがないといけない。やはり世の中を変える人間は、脳がちがう。

いいものをみれた視察でした


あれから十三年

いまから十三年前
忘れもしない出来事だった わたしは毎年、年中行事のように渡航していたインドの旅をすべてコーディネートしてくださるインド人経営の旅行会社の方と、池袋のサンシャインプリンスにてその夜、会食をしていた。解散し帰宅途中、あの惨劇をしることになる。ニューヨークの友人たちに連絡は、とれるもののみんなパニック状態。新日本のツアーが23日に終わり、めでたく藤波さんとタイトルを奪取に成功し、翌二十四日にニューヨークへ向かった。事件から13日が経過しているもののマンハッタン中が猛烈に科学薬品臭い。イーストビレッジの日本人レストラン関係者が集まり、なにかできることをしようと、タイガー服部さんも合流し、必死に寿司、お握り、焼きそば、焼きうどん、炒飯など二百人前のlunchboxをこしらえ、通行許可の検問をすべてクリアし現場からわずか五十メートルほど手前にある軍隊、消防、警察の休息所のようなところに届けに入った。何百人もの兵士、消防、警察たち。その様子はまるで、タワーリングインフェルノの映画のダラスタワーの ロビー階でぐったりと休息をとるスティーブマックィーン扮するマイケルオハラハン隊長チームとも思えた光景であった。

25日には、ヤンキースタジアムで試合前に追悼セレモニーがあり最後には、マイケルボートンがリーンオンミーをアカペラで熱唱。五万人のヤンキースファンは全員涙していた。

あれを境に なにかにつけゴッドブレス・アメリカと叫ばれる新たなきっかけともなり間違いなく更なる、愛国心が国民全員に芽生えさせられた瞬間である。 わたしは平和主義者からしたら戦争は極めて反対。 外交問題も近隣を威嚇する事がすべてとは思わず、国同士仲良くすることが先決と考える。

武力行使よりも、先祖を大切にし、親、兄弟を大切にし、家族を愛し、地域を愛し、国を愛するべきであるとの考えからすると、いかに道徳教育からの人間形成に力を入れなくてはならないと思う。

そのさらに人間の細胞の土台を形成させるのに、私が提唱し続け、政治の世界に身を投じた最大の理由である、食の改善なのであります。

食育

私のライフワークです


10 September, 2014 13:26

今日は、午前中よりサンリオ本社にて博覧会見学。むかしサンリオ社と全日本がコラボしていたころ、私のオリジナルTシャツを全日本入団を記念し製作してくださった。世界でも無い、キティちゃんが蓮の花の上に座禅を組み、瞑想しているキティTシャツであった。そういうユニークな発想こそ世界進出の鍵であります。文京区ももうすこし頭を柔らかくすべし


8 September, 2014 21:07

先週末は、江戸川橋近辺の大祭につき、神社での神事に参加し各町会の御興所をまわり、ご挨拶。夜は、地元の会合。

今日は朝イチで美容院にてきれいさっぱり坊主頭に変身 ここまで短いのはもしかしたら2003年あたりの新日本時代以来
坊主頭ほど気楽なものはない。寝癖もないし、ブラシも整髪料もいらない

午後から本会議

夕方から親戚の叔父さんのお通夜に護国寺へ参列
明治安田生命の幹部職員。
ずっと癌と戦われていた 抗がん剤で弱り、放射線で弱り。最後の最後までよく戦われた。なんとしても仇を打たねばならない

私と同じく航空無線が大好きで、そのために羽田の近くに住まわれていた。

生命保険の会社に勤めていたので、保険会社目線からの健康、医療、予防医学に関してアドバイスをいただいたものだった。

惜しい方をまた失った。
明日、また最後のお別れをして参ります